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部下の叱り方について

 新社会人となって、約1年間くらいが一番の下っ端ですが、その後は後輩や部下が出来たりして、自意識も変わらざるを得なくなります。楽なのは、一番下で、怒られながらもフォローしてくれるのが良いのでしょうが、何時までも上司や先輩に頼っていては、自分磨きにはなりません。ですから、鍛錬もそうですが、技術的にも錬磨の上に、年数を経ただけのことはあると評価されませんと、同じ職場で働くことが困難ともなります。

 当初、成果主義は2000年代の初めには、約30年くらいの周期で変わると予想されましたのが、10年も経たないで、変化が急流のように激変しました。これは、自由主義経済の要求する姿ですから已むを得ません。が、それにしても高学歴で、能力のある人たちが採用されることで、漫然と業務をこなしてきた人たちは、どんどん追いやられてくるようになりました。世界の主流でも20年以上の学歴と専門分野を持った人でないと、被雇用状態が維持できないという現況です。更に、競争の倍率が何千倍という狭き門ですから、望んだ業種とか・行きたい職種とかは困難となってきています。その中での、上司の部下のしかり方ですから、出来ない上司ができる部下を叱るのは難しいでしょう。現状では、上司や経営者らは、部下はある意味育っていますので、自分らが教えてもらいながら、褒めながらの教育となるでしょう。上下関係は逆転するどころか、乖離することになるでしょう。この先の新資本主義はもっと乖離します。

 

第一印象の良し悪しについて

 ひとは、どのような環境にあっても、第一印象でその人となりがほぼ決まってしまいます。何故か。不機嫌な顔をしたひととは、長くは会っていられないからです。楽しそうに見える人とは、興味・関心がそそられ、どんな人か、何かをもっているかを、興味津々に引き出そうとします。ですが、不機嫌で、服装も雑で、雑な言葉や態度の人とは、一刻も退散して二度と会うまいと思うのです。この違いは何のかが、本能的に分かりますが、バイアスがあったり、他人からの助言で先入観を持って接したりすることで、大きな誤りを犯します。

 従いまして、人と会う時には、自分の最高の場面を演出しなければと考えてください。そうしませんと、廻りや紹介者らが、“本当はそんな人ではないですよ”と言っても信用はされないでしょう。この原始的インスピレーションは大抵当たります。本音が思わず出るからでしょう。

 素(す)の自分を隠すことはありませんが、少なくとも相手に嫌な印象を与えないという位の心の準備は必要でしょう。そうしませんと、良さが出て来ませんし、それでいいと思っていましたら、ある程度の損は覚悟でしょうから。

 即ち、第一印象の良し・悪しは、決め打ちをするくらいに当人の印象を決定づけます。良いに越したことはないのでしょうが、若い時に悪ぶって見せた分、取り返しはかなりの時間を要することとなるでしょう。

 

放置力の効果について

 自身の身の回りの友人・知人との接し方では、それぞれに違った深浅の度合いがあります。程よい距離感を保つ工夫をすることもあれば、全く気にしないで付き合える人もいます。これは、ウマが合うとか、この人とは親しくしていようとかは思っていないからできるようです。人が付き合うとかの交流の目的は、自分に無いものや自分が得たいものを取り込めるかどうかもあります。そして、見習うことのできる、尊敬すべき挙措があるとか、知識において適わないとかの理由があるものです。

 確かに、『放置力』と一概に決めつけてはいますが、適度な距離感を保った放置は、心地よいものでしょうが、離れすぎたり、近すぎても、トラブルのもととなります。

 さすがに、適度な距離感ということを意識するには多少の時間を要することであって、模索も合議をも伴うモノでしょう。長く生きていますと、最初から“この人とは、いける”という感覚がありますし、無い場合でも時間が経って段々と分かりかけるという意識も芽生えます。

 人生は、所詮手探りと考えるか、石橋を叩いて渡るか、それでも他人を信用しないで身内をもってして廻りを固めることもあるでしょう。

 親族でも、友人関係でも、適度な放置力は何時の場合も必要です。これがありませんと、関係が壊れるし、長くは持たないことが多いからです。これが、正に放置力の効果です。

 

批判との向き合い方について

 私どもは、自身を含めて廻りの批判や意識をかなり気にします。何故か。成功への自惚れと、確信への揺らぎがあるからです。そのために、極端に批判を恐れ、何事も無かったような現状維持が、バイアスがかからなくて済む分、自分の内心の均衡を保てるからでしょう。

 しかし、何かをしたいとか、むずむずするような衝動が自己を襲った時には、動かないではいられないのです。動くということは批判に晒されるということが前提ですので、何ものをも恐れないという確信を抱いているからでしょう。

 全てに対して向き合うことです。中途でも、結果でも、良否も問いません。何かをしたいと思ったときが始まりですから、直ぐにしぼんでしまうような意気込みではなく、何処まで行けるかを自分に問うような行動力が必要でしょう。

 向き合わずに、逃げていては、自分のしたいことさえも分からなくなってしまうでしょう。批判は一面不安で怖いものです。しかし、動き始めてみませんと、経過も結果も出ません。他人を意識せずに、自己の内心に問うてみることです。「その動機善なりや、私心なかりしか」と言ったのは、稲盛和夫氏です。亡くなりましたが、生き様は門下生を含めて沢山の塾生がいます。この人たちに受け継がれた遺志は、多くの起業家の批判との向き合い方に勇気を授けてくれるでしょう。

 

指示待ちを生まないためには

 私たちは、動物的ある時期から、興味のあること、関心が向くこと、への本能的向学心が出てきます。これに対して、危険とか、意味がないとか、役に立たないとかの理由で、親が辞めさせたり、禁止したりします。これは、野生のみの世界でしたらいいのでしょうが、礼節とか躾という名の禁止事項によって、制限が加えられますので、飛躍することもない代わりに、突出した個性も出て来はしないでしょう。

 これに違反した場合、どうなるかは倫理と道徳という名の制約のために、一切の行動の制限を受けることになるのです。人間界は制約が多いので、そうした制約のもとでも自分が何をしたいのかを常に考えていきませんと、他を圧倒することは無理となります。

 そして、他を制するための要諦は、自らが考え、自分の手足で行動することでしょう。誰かに、何かを言われないと、何もできないというパターンがすう勢となりますと、出し抜くという行為は無くなりますが、自分の才覚で何か便利なものを作り上げるという創意・工夫が無くなります。良いか悪いかは、何でもそろった社会では良いのでしょうが、手先を含めて自由な発想も無くなります。これを少なくするためには、押しつけだけではない工夫があって良いのではないかと思っています。これが、指示待ちを生まない生き方となるのではないでしょうか。

 

人間の本質と闇

 人は、生まれ落ちた環境を変えることはできないでしょう。これが、「親がちゃ」ということに繋がると思うのですが、自分では全く知らない世界でも、話しを聞いていますと、何となくわかることもあります。貧しいだけが性格を捻(ね)じ曲げないし、正しいことばかり言ってもある集団では通用しないこともあるし、力が全ての世界もあるということは、だんだんと分かってきます。これが、成長することだと理解するか、学校では学ばないことですから、これではいけないと立身するという人もいるでしょう。

 しかし、世の中はあらゆる光と影があって、正しいと思われることが通用しないことがままあるのも事実です。一定の仮定の環境を与えることで、結果を出す学者の世界とも違っています。私が、敢えて人間と言わずに「ひと」と常に言っていますもの、自分なりに見た・得た環境での良い方に依っています。正しいとか、理屈に合っていないとかではなくて、その場その場の正義は、自分には無いのだという理解が行くまでは時間もかかりました。

 人間の本質は、自堕落になろうと思いますと、幾らでもなれるし、呻吟や辛苦と言うことが、自分を維持するのに役立つということへの理解も同時できるのだということも、学びます。

 ですから、“ひかり”のみではなく、“やみ”も盾の両面のようにあることも、学ばなければならないのでしょう。その先にあることも、同時に学ぶことになります。

 

神様が味方する人とは

 ひとは、生きている限り大なり小なり他人の影響のもとに自己を大きくしたり、捻じ曲げてしまっていることが多いでしょう。これは、嫉妬・慎みなどの感情的な面が大きく左右して、己を大きくも小さくもするからです。

 他人の悪口や陰口を言っているうちは、自分の卑小さや卑屈さが前面に出て、おどろおどろしい相貌(そうぼう)をしているに違いないでしょう。これは、心の鬼を体現していますので、幾ら隠しても出てくる真相です。ですから、悪口を言いたくなりましたら、その前に対象の人の良い所を考えに考え抜いてほしいと思っています。何故なら、人は悪口を言われるよりも、リップサービスでも褒めてもらったほうが気分が良いものです。これを繰り返しされていますと、本人はまんざらでもなくなり、反射的効果として腹の中では面白くないのだろうがと思っていても、悪しざまに言うのは、よすようになるでしょう。

 こうした日々の心掛けが大事なようですから、腹にも無いことでも善因善果と言って悪くはならないでしょう。従いまして、少なくとも他人の悪口や陰口を言うのは避けて、面と向かっても欠点をあげつらうことなく、褒めることに徹したほうが良いのではないでしょうか。神様は、視ています。助けるも、助けないも、神様の御心です。