経営者も従事者もともにどうぞ

お困りのことで、コンサルティングをお受け致します

一発屋芸人の生き方について

2026・09・21=Ⅰ;

 

 私は、お笑いについては、自分が“ウィット”に富んでいないことと、後からの気づきが遅すぎて、どうにもならない年月が長かったものですから、“タレント”とという才能を感じたことはありません。長い下積みを強いられる“一発屋芸人”の正体がこれでしょう。

 テレビやネットの世界では、実に心が震えるほどの感嘆さを覚える人が多いものですから、“絶対に、自分がなれる業界ではない”との認識があります。

 また、昭和28年2月のテレビの放映開始からほどないころの、昭和34年ころにテレビを入れてもらいましたので、割合早くから映像には親しんできました。

 そして、映像の中にいる人たちの才能溢れる言動には脅威の驚きを覚えたものでした。しかし、年月が下って70年余も過ぎますと、『芸』は役者かタレントかと言えるほどに未分離であり、繋がっていることへの才能を感じたものです。そうした中で、『~小島は「お笑いの才能は本当にないと思います。謙遜ではなく」「例えばネタを作る能力とか、大喜利。その2つって結構デカいじゃないですか。お笑い芸人の中で。そこマジで低いんで」と自己評価した~』(2024・01・23;E-TALENTBANK によるストーリー からの一部引用)といった言葉を聞いて、生半可で大勢の才能あふれる集まりの世界で、(しのぎ)(けず)ることなどは困難と、改めて思い知らされました。憧れてなれるほど甘い世界のことではないでしょう。

ホワイト企業と福利厚生について

2026・09・20=Ⅰ;

 

 普段から問題になる「ブラック企業」とか「ホワイト企業」と言った“ラベル”の問題ですが、一概には断定できない企業風土があります。確かに、厚生労働省の言う労働目的を明確にした企業理念のあるところには、大勢の若手が集まるのでしょうが、労働時間を守らないとか、残業代がつかないとかの、昔で言う「ムリ偏にゲンコツ」などと言った企業風土には、人は集まらないでしょう。しかし、一部には「居心地が良すぎて」などと言った人たちの意見も見られます。企業風土の良さに、物足りなさを感じるのだそうです。

 これは、「~離職率の低すぎる会社は、つぶしの利かない社内業務で労働市場における価値を高められず~」(2024・01・23;J-CASTニュース によるストーリー 一部引用)と言った問題ではなく、意識を集中して働くことへの喜びを得たいがための労働者意識を持たない人もいるからです。これが、福利厚生を超えた、働く喜びを齎すのです。

 どちらが良いかなどは、若手や、目的意識をもって労働の観念を高からしめるのが一番ですから、当該人らにあった労働の提供と手当の充実した環境を与えるべきでしょうし、満足とまでは言わないまでも、“やりがい”を覚えさせることが良いしょう。

働く意義と、これに応えられる環境が合致していましたら、経営側も労働者も、給与を出したい、何時までも働きたい、との双方の兼ね合いが合致することでしょう。

祖国のために戦えるか(敬称略)

2026・09・19=Ⅰ;

 

 これは、どなたも知っている“ひと(⇒桜井よしこ)”の言葉ですが、常に一般論として言われる「戦争が起きたら銃を持ちますか」と言って答えを迫ることです。が、平時に慣れた人たちに極論を押し付けられても、仮定の話しには答えられないと(かわ)されるでしょう。

 そのために、普段からの心構えとしての戦争論が言われるのでしょうから、この質問や答えには、国が責任をもって教育しなければならないと考えます。

 私どもは、大東亜戦争後81年余にならんとしているために、育った環境も、廻りの状況も違ってきていますので、応えに柔軟性を持たなければならないと考えています。

 この地球上では、何時も何処かで戦いがあり、その犠牲になっている人たちが無数にいます。普通に言われることですが、戦争の大きな犠牲者は女性や子どもたちであり、判断のつかないことでは、国を預かる議員や行政の長の判断ではありませんから、前提がおどろおどろしくて、いきなり意見を求められても困難でしょう。イスラエルなどの臨戦態勢下の国では、女子も子どもも銃を取るのが当たり前なのでしょうが、祖国の成り立ちをしっかりと教えてこなかった人たちへの質問では穏当を欠くでしょう。そして、国づくりには避けて通れない“命題”ですから、きちんと教え(さと)すべきですし、緩急(かんきゅう)の質問ですから、日ごろの問題にもなると考えます。

癖くせを治なおすには

2026・09・18=Ⅰ;

 

 決まりきった言葉に、「なくて七癖(ななくせ)あって四十八癖(よんじゅうはくせ)」と言われます。古くから言い慣らされてきていますので、言葉自体に重みがなくなっています。重要ではないといった意味ではありませんが、自己の身の回りを見返るにはあまりにも単純すぎるのではないかと思うからです。ですから、治すよりも自覚することが先決で、全てでしょう。

 一例を引用しますが、【~皆さんはご自分の言葉遣いに自信を持っていますか。周囲で言葉遣いが悪い人を見ると「子どもっぽいな」「品がないな」と不快な気分になる人も多くいるでしょう。しかし、言葉遣いが悪い人は、自分の言葉遣いが粗雑で品がないと自覚していないケースが大半です。つまり、皆さん自身も無意識のうちに言葉遣いが悪くなっている恐れがあります。~】(2024・01・23;シュフーズ の意見 一部引用)

 これなどは、自己評価がすべてで、即ち「~言葉遣いが悪い人は、自分の言葉遣いが粗雑で品がないと自覚していない~」からでしょう(同上)。

 癖に、良いも悪いもありませんが、(はた)から見て先に述べましたように、品がないと言われないために、身ぎれいにすべきでしょう。そして、治すほどでもいない癖がありますから、時と場合で、柔軟に使い分けるのも一興(いっきょう)でしょう。品があるかもしれませんし、ほっとする表情があるかもしれませんので、今一度立ち返ってみるのも良いでしょう。

表面的に良い人とは

2026・09・17=Ⅰ;

 

 長年の人生生活で、全く多い弊害が、掲題の「表面的に良い人」でしょう。これには、辟易(へきえき)します。実生活では、多いことを知ることになります。身近でも、噂でも、分かりやすい、①ずるくて、②巧緻(こうち)にたけ、③他人の利益を奪い、④他人の人生を狂わし、⑤落ちた人を(たた)く、といった(ずる)さの限りを尽くし、何とも“良心”が全く痛まないのです。これが、意外に多いのです。競争社会での戦いではありません。日常の交流での出来事です。

 「~家族の誰とも仲良くなかった。両親からさえ遠巻きに見られていた自分を、どう扱えばいいのかもわからなかった。問題に目を瞑(つむ)って過ごすことができるほど器用でもなく、頭が悪くもなく、なぜ生きているだけで息苦しいのか、毎日毎日そんな閉塞(へいそく)感に襲われて、そこから抜け出すことができるのは本を読む時くらいだった。~」(2024・01・23;中野 信子 の意見 一部抜粋)というように、自己の利益さえ(もたら)せるのなら、どんな汚い手を使っても、何ら恥じることがないのです。「おれ、そんなこと言ってっけ」、「おれ、そんなことやったっけ」と言ってきて(はばか)らないので、一瞬気のせいかと思えるほどに、(よど)みなく日常を送れるのです。くそ(・・)以下です。最低限の良識のかけらもないものですから、唾棄(だき)すべき“やから”です。身の回りを振り返ってください。「あぁっ」と思い(あた)ることがあると思います。今後も取り上げますが、一度振り返りをしてみてください。

何故勉強をするのかについて

2026・09・16=Ⅰ;

 

 勉強しなさい、頑張りなさい、等々言われてきているのが、各家庭における一般的な状況です。これらを言われなかった人などは、優秀で、成績もよかった人ではないでしょうか。個人的には、何とか“ずる”をして逃れられないかとか、やらないで済ませられたらなどには、どういった嘘をつけばいいのかなどをしきりに考えたものです。

 学窓の期間、“何故、勉強をしなければいけないのか”などと、本当に、且つ真剣に考えたことなどは一度もありません。後年、悔やむこと頻りですが、当たり前でした。

 また、若年から先を見越して、成績と次につながる“いい子”になるための姿勢は、成績の(ちゅう)から(じょう)の子らの常とう手段でしたしょう。しかし、生き方や人生に真剣に悩んできた子らにとって、“学校での勉強”は、当面の課題でもあったでしょう。

 『~それは、先生のように、他者に気づきを与える人になりたいと思ったからです。まずは、先生とそつなくコミュニケーションが取れるように、~が、学校の勉強とは直接関係がないので、学校の成績は下がっていきました……。~』(2024・01・23;阿部 恭子 の意見一部抜粋)。これが、くせ者です。齢70年余の中で気づきがありました。自己肯定感と天命を知る機会を得ることです。決して他人らへの容喙(ようかい)でも、身心を高く保つことでもなく、自らが所在を覚知するためであったと理解することでした。

判断力が足りないとは

2026・09・15=Ⅰ;

 

 私どもは日常の中で、常に判断と決断を迫られています。小さいか、大きいかは別に、判断の根拠は自己が過去に培ってきた経験則が大きいでしょう。しかし、これを超えることは、生半可な教養では叶いませんので、相当の下地(したじ)が必要となります。

 これが、教養であり、良識であったりします。大抵は、自己の考えと結論が誤っていなかったことにより、胸を撫でおろします。しかし、過去に経験がないとか、喫緊の回答を求められたりしますと、混乱し、頭の中が空白になってしまいます。ですから、判断も、決断もできなくなるのです。これが、“力”の有無の根拠です。

 決して経験のない場合でも、自己の良心にはそんなに隔たりはないのですが、良心に呵責を覚えたり、逡巡して思い煩います。常に、損得でしか考えない人には、思い煩わないのでしょうが、結果が良い時と、悪い結果になった場合には、顔にも(からだ)にも出てきます。そのために、内心の判断が外に漏れることにもなります。

 「すぐに決めつける・批判する」のは判断力が足りない証拠がこれだ(エピクテトスが残した言葉)(2024・01・23;書籍オンライン編集部 によるストーリー一部引用)。ですが、個人的にはこの意見には賛成できかねます。人生を長く生きても、僅かでも判断の根拠は『経験側』以外にはあり得ないからです。判断力には、過不足はありません。