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持続可能なビジネス展開について

 可能でしたら、自己の起業ファーストが永久に続くことを目論むものです。が、そうそう上手くは行きません。何故か。変わらない企業理念と変わって行く変数を混同して止まないからです。“持続可能”とは、商売や自己の意志のみの言葉ではないからです。紀元前の何千年もの昔に遡った、自己の利益追求に終始しても不都合が感じられなかった時期とは一線を画し、有限な地球に対する収奪ではなくて、復元を、そして還元・再利用を目指して消費して行きませんと、いずれは枯渇するのが目に見えていますことを自覚していないからです。

 回転も、還元も、リピートがあって初めて成り立つ商売の基本です。1回こっきりの商売は、悪を生みます。悪と言っては語弊がありますが、弊害と言ったほうが良いのでしょう。不思議なもので、“縁”はどのような形でも繋がっていますので、悪事を働いた人は報いを受けます。違った環境で、違った場所で、間違いなく報復を受けます。

 こうしたことの無いように、商売の基本を皆の幸福のために維持することが肝要なのでしょう。交通の要衝にあったとか、交易の要路に面していたとかは、自己の商売繁盛の利他的基本です。そこからが大事な要素です。信用も継続性も、その人の“倫理観”のみでしょう。

 

内発的報酬とは

 私が個人的に考えました“報酬”には、労働対価あり、世話になった感謝の対価もあり、無償の愛への対価もあります。これらの対価を総称して報酬というのでしたら、全ての行為や助言に対して報酬が生じることになると考えます。これらに加えて、内発的動機や自己に対する頑張ったことそのものである「グリット(やり抜く力)(Duckworth etal., 2007)と忍耐力」が成功を齎す鍵となりますので、これも報酬の一部と考えます。

 学者や専門家は、決して私のような考えを支持しないでしょうし、内発的動機などへの考慮は一顧だにしないでしょうから、報酬を与えるとか、報酬と見做すとか言うのは、地さ藍には考えられないでしょう。

 しかし、人の意識は全てが考えている差m期には無いのが通常ですし、これらを超えるところでもあってしかるべきと考えます。複雑怪奇な人の心理が理屈通りに行かないことは分かっていても、では実際に行動パターンや心裡留保などの、例外をもって考えるべきではないでしょう。全ての行動や思考は一緒なのです。

 こうした行動態様も、行為原則も人の心理の言ったんですので、包括的に含んだ現象をもって考えるべきでしょうし、割合で括っても正確な答えが出てこない場合もありますから、誘導しない、示唆しないという、天然の理解力を示す事でしょう。

 

Z世代が感知する良くない企業とは

 私どもが考える、世代間の齟齬とかは言うまでもなく、「Z世代」という斯様な言葉が無かった時期まで繰り下げられませんと理解は不可能です。

 ですから、Z世代の感知力というのは、私どもが考えるずっとはるか上を行っていますので、正直理解が行かないといったところです。しかし、そうした世代の人たちが次の企業の維持存続を図っていかないといけませんので、この人たちに託せるかどうかは、私たちの世代に理解力と感応できる行動がありませんといけないでしょう。

 従いまして、世代間ギャップという、並外れた考えの上を行きませんと腑に落ちてはこないでしょう。これが、現実ですし、企業の理念や行動も変容していかざるを得ないものと考えます。これが、100年・200年と続くかどうかは分かりませんが、一時代の趨勢が800年も続いた歴史がありますので、不可能ではないのでしょう。しかし、目まぐるしく変わる世相に対する評価はどうしたら良いのかも問われるでしょうから、私どもの子どもの世代でさえ分からないにもかかわらず、自分らの子の理解力の無い先輩たちが、どのように道筋をつけて行ったらいいのかを、考究すべきと考えます。これらが理解できない企業が、「良くない企業」でしょう。

 Z世代が望む働き方改革とは、各人の意思が尊重され、当該人の望む職域での働き方ではないでしょうか。これだけでも、私どもの理解を超えています。

 

企業が望むリスキリングとは

 私は、年代的に後期高齢者の部類に入ってきましたが、現職で働いてきた人たちも、役職定年とか雇用期間の年数定年の時期を迎えるようになりました。こうしませんと、後進が育ちませんし、若い人たちの職場を奪うような状況を呈することにもなりますので、経済の停滞や混乱が必死となります。

 しかし、1990年代の後半を境に、業種や業態の革新的変化を迎えた際には、護送船団方式の世代は生き残ることが困難か必死でした。そのために、この初期から言われてきました“リスキリング”という学び直しが未だに定着していないようです。何故か。年功序列で学んできた世代にとって、成果主義がどうしても受け入れることのできない改革であったということに起因するのでしょう。終身雇用も同じです。自分たちの立ち位置が、若い人にとっての憧れになっていないことさえも分からなくなっているという現実を見直さないのです。

 これでは、経済の停滞どころか衰退であっても、見て見ぬふりをすることで自分の立ち位置を護るということにもなります。これでは、常に競争に晒されてきた国に対抗はできません。今後、もっとシリアスに変わる環境変化に身を投入することでしか、生き残ることはできないと経営層が辛辣(しんらつ)に示していくしかないのでしょう。これが、企業側のリスキリングです。

 

角を立てずに相手に、聴く・話すには

 実に日本的で、的を射るという考え方です。“角を立てない”などは、日本以外には無いのではないかというほど、鼻汁が入ったチリ紙を外から更に包んで見栄えを良くするというような、見栄と外聞のみのやり方でしょう。そこで、自分の分からないことを横柄に聞かない、他人を立てることで尊厳を維持させる、他人の気分の良い時に聴くなどは、手法としては良いのかもしれませんが、外野から見ていますと、何と滑稽な姿であるかと思わずにはいられません。

 しかし、慣習かどうかは別に、相手を怒らせず、相手の気持ちを良くさせ、相手の尊厳を維持しながらの聴き方には、技術どころか、自己の内心の尊厳も控えなければならないなどの抵抗があります。

 本来、環境や立場を超えて、お互いの向上心や知に対する追求心を育てることは、結局身近な廻りの環境をも向上させることになりますので、どんどんしていくのが良いのでしょう。が、実際には決してそうでないことを分からせられることがあるからです。

 気分が良くないとか、今はそんな気になれないとか、手ぶらで聞くのかとかの理由か原因かは別に、手練(てれん)・手管(てくだ)が実にうまい人もいます。持って生まれた性格かどうかは分かりませんが、スムーズに、何事も無かった様に聞き出す才のある人には驚嘆します。これは、何方も学ぶことに異を差し挟む気はありません。

 

会話のネタに興味を持たせるかどうかについて

 通常の会話において、私どもは仲良しとか軽口が利かれるような関係を持ちたいので、自分にとっては好かれたいとか、廻りには好印象でいたいとかの背景があります。これらについては、自尊心や自己優位の立場の強調もあります。

 しかし、他人でも廻りでも、そんなに生易しく付き合いをしてくれる人たちばかりとは限りません。何故なら、隣近所の付き合いでも、50年前、60年前は、お互いに見栄の張り通しだった時もあります。その結果として、周囲に壁を設けて内部を見られないとか、家族の状況を知られないための工夫として、マンションという密な空間を求めるようになりました。

 これは、お互いに干渉されたくないといった意味合いばかりではなく、自己の内心的な領域にまでは入ってきてほしくないために、敢えて知られたくない空間を作り出すということを積極的にしてきたのです。これらは、会話のネタを深堀しない工夫かもしれません。

 良いか悪いかではなく、触られたくない部分の増大と、個人の領域に対する稠密(ちゅうみつ)性(せい)の増大が齎(もたら)した結果、通り一遍の付き合い普遍化したからでしょう。連帯とか共同とかの社会関係が廃(すた)れた結果ですから已むを得ないのでしょうが、「村八分」という連帯のことばにも意味をなさなくなってきています。大事なことは、個の権利の尊重という名の個性の喪失という社会の進化かもしれません。連帯も個性も、全ては興味・関心の的(まと)である会話のネタにつきます。

 

願いをかなえられないひとについて

 私自身もそうですが、願いは何方(どなた)ももっているのに、“叶えられない”のは、何故かということに尽きるようです。日本だけを見ても1億2千6百万余の人たちが皆願望をもって、その願いが適えられるよう神社・仏閣にお参りをしている人もいるのでしょう。そして、パワースポットなどを巡ってまで願望が適(かな)えられることを期待します。

 しかし、金を貯められる人が一部であるように、願いをかなえられる人も一部に過ぎないという厳然とした事実を認識すべきでしょう。別々の人生を歩みながらも“幸せになりたい”という希望は誰にもあるのです。一所懸命・汗水たらしながら、日々倹約してでも願いの成就することを願ってやまないのは、先ずは自分の幸せ以外では、子や孫や家族・親族と知りうる限り、身近な人々を挙げていきます。果たしてそうでしょうか。親族関係でも仲たがいをしている人たちが大勢います。普段は何事も無いような顔をして、裏切り・中傷・陰口などを吐(つ)いて回っていながら、本人たちは綺麗ごとを言っています。

 こうした関係になりながら、自己の最大限の利益を目論んで徒党を組んで、気に入らない人の排除を目論んでいます。これなど、願いを叶えられない典型でしょう。自分がまるっきりわかっていませんので、“幸せ”だけを願っても叶えられないことが、どうして分からないのか、これも不思議な現象です。