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知は、体験を上回るか

 これも、古くて新しい“論争の課題”となるものでしょう。知において角が立つ場合は、廻りを敵にして止まないケースがほとんどです。しかし、学術論争でしたら、相手に負けを認めたり、相手の主張に譲ったりしては、良い論文が書けません。際立つための根拠は、自分にしかないのですから、沢山の資料を読破し、沢山の検証結果を出さないことには、自己の根拠とする論文は書けません。知を上回る体験は、相克(そうこく)の対象ともなります。

 これが、国家主義の時代も民主主義の時代であっても、何も変わらないというのが、面白くも悲しい現実です。「牧野富太郎が、小学校中退で東京大学の連中と張り合った時代も今も、何も変わりはしない」でのしょうから、もっと“好き”を仕事にしたり、“何か”を自分の人生の生甲斐にしたりすることで、謳歌したい日常もあるのではないかと考えます。これは、私の独断と偏見でもなさそうです。沢山の人が、何か一つのことを思いついたら、これに反対する勢力が大勢で潰しにかかるという構図は、昔も今も変わらずにあるということでしょう。

 これは、単純に「嫉(ねた)み・嫉(そね)み」ではないでしょう。自分がやろうとしていたことを誰かに先を越されたら腹立たしいし、嫉妬心も芽生えるでしょう。それ以上に、「潰(つぶ)してやる」と云わんばかりに、沢山の人を誘って誹謗・中傷の嵐を巻き起こすでしょう。これが「人間の業(ごう)」です。知は体験を上回りますし、体験も知を上回ります。この相克に限りはありません。