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人間の本質と闇

 人は、生まれ落ちた環境を変えることはできないでしょう。これが、「親がちゃ」ということに繋がると思うのですが、自分では全く知らない世界でも、話しを聞いていますと、何となくわかることもあります。貧しいだけが性格を捻(ね)じ曲げないし、正しいことばかり言ってもある集団では通用しないこともあるし、力が全ての世界もあるということは、だんだんと分かってきます。これが、成長することだと理解するか、学校では学ばないことですから、これではいけないと立身するという人もいるでしょう。

 しかし、世の中はあらゆる光と影があって、正しいと思われることが通用しないことがままあるのも事実です。一定の仮定の環境を与えることで、結果を出す学者の世界とも違っています。私が、敢えて人間と言わずに「ひと」と常に言っていますもの、自分なりに見た・得た環境での良い方に依っています。正しいとか、理屈に合っていないとかではなくて、その場その場の正義は、自分には無いのだという理解が行くまでは時間もかかりました。

 人間の本質は、自堕落になろうと思いますと、幾らでもなれるし、呻吟や辛苦と言うことが、自分を維持するのに役立つということへの理解も同時できるのだということも、学びます。

 ですから、“ひかり”のみではなく、“やみ”も盾の両面のようにあることも、学ばなければならないのでしょう。その先にあることも、同時に学ぶことになります。

 

神様が味方する人とは

 ひとは、生きている限り大なり小なり他人の影響のもとに自己を大きくしたり、捻じ曲げてしまっていることが多いでしょう。これは、嫉妬・慎みなどの感情的な面が大きく左右して、己を大きくも小さくもするからです。

 他人の悪口や陰口を言っているうちは、自分の卑小さや卑屈さが前面に出て、おどろおどろしい相貌(そうぼう)をしているに違いないでしょう。これは、心の鬼を体現していますので、幾ら隠しても出てくる真相です。ですから、悪口を言いたくなりましたら、その前に対象の人の良い所を考えに考え抜いてほしいと思っています。何故なら、人は悪口を言われるよりも、リップサービスでも褒めてもらったほうが気分が良いものです。これを繰り返しされていますと、本人はまんざらでもなくなり、反射的効果として腹の中では面白くないのだろうがと思っていても、悪しざまに言うのは、よすようになるでしょう。

 こうした日々の心掛けが大事なようですから、腹にも無いことでも善因善果と言って悪くはならないでしょう。従いまして、少なくとも他人の悪口や陰口を言うのは避けて、面と向かっても欠点をあげつらうことなく、褒めることに徹したほうが良いのではないでしょうか。神様は、視ています。助けるも、助けないも、神様の御心です。

 

先払いの意義とは

 何でもそうですが、自己の意識が決定的に全てを決めることがあります。これは、金銭の支払いに関してもそうです。例えば、クレジットなどでの支払いは、最初が約2か月後に来るのが通常です。が、こうした「借金を負う」ということに耐えかねて、「現金主義」を貫く人がいます。逆に、今欲しいものがあっても、手元に現金が無いので買えないのですが、クレジットでしたら欲しい現物が手に入り、更に支払いを2か月後にできるという素晴らしい提示に感激して、欲しいままに現物を手に入れるという“借金魔”になってしまいます。

 これでは、流通の安定をも含めた本来の商業主義を逸脱した消費社会となって、借金漬けの消費者が圧倒的に多くなったのが、これを悪用した『消費者金融』でした。「唆(そそのか)す」のです。耳に良いことばかりを言って、モノを買わせ、その後に来る高利の返済のことを無視した射(しゃ)幸(こう)心(しん)をあおる行為が良いことではないのですから、破綻は目に見えていることなのです。

 しかし、私がここで言いたいことは、先行投資という意味の“先払い”であって、消費者金融の罠にかかるような消費社会の出来事ではありません。「投資」という言葉が適正かどうかは分かりませんが、自己実現のためのいまある全知全能を掛ける行為が、将来の、又は未来の地位や能力の更なる飛躍のための投資であるとしたら、是非すべきでしょう。

 

自分の売りの再確認とは

 社会人になる前に、ペーパーテストを含む「面接」という試験を受けて、これに合格しませんと目的の企業や公務員にはなれませんので、学生時代を含めても、自分の所作を分かっていなければならないのでしょう。が、自己を高く見積もっている人は、なかなか現実を受け入れることができないでいます。これには理由があって、両親がそうさせている場合と、自分の自惚れがそうさせている場合があるからです。

 決して、性格が悪いとか、根性を入れ直さないと自覚できないとかではなく、“性格”そのものでしょう。ですから、自分の売りが何であるか、自分がどの位置で収まるかを確認して、決して偉ぶらないとか、卑下しないという目の高さの生き方は必要でしょう。

 親にも色々の種類があって、高望みをする親もいれば、自分がそうであったのだから「たぶんそうであろう」とか理解しているのです。質(たち)が悪いのは、良い所は自分のコピーを要求し、敵(かな)わなかったことに対してはリベンジを望むという、子供にとっては一番嫌なタイプでしょう。こうしたことが何時の時代も悲喜劇を齎し、場合によっては殺人をも引きおこします。

 此れでは、当人は何のために生まれてきたのか分からないままに人生を悔いることにもなりますので、親の方が用意周到に諮(はか)りませんといけないでしょう。悲劇は繰り返されます。自己の立ち位置を用心深く考察しておきましょう。悲劇を生まないための“お守り”です。

 

創造性を求められる時代とは

 私は、第二次世界大戦の敗戦後に出生し、もはや戦後ではないとも言われた時期です。しかし、伯父たちが戦地から戻っていて、物心つくくらいの時になっても、その伯父たちは酔っては、戦時の、そして戦闘中の話しをしたものでした。私の親族には職業軍人もいましたし、召集されて戦地に赴いた伯父もいました。ので、伯母からの又聞きではなく、戦争中の話しを聞くことはできました。しかし、勇ましかった時のことや苦しかった時の話しでも、私にとっては“想像上の”話でしかありませんでした。

 これが、私の心象風景にどのような影響を与えたかは分かりませんが、複雑な想いをしたものです。ですから、就学して美術や音楽の時間になりますと、“絵”に対する投影の仕方、音楽にての軍事歌謡と伯父たちの酔って歌った戦時歌謡の交錯した想いに、何故か心中面白くはありませんでした。そこで、『創造性』という概念が、教師として生徒たちに何を教えたかったのかを、もっと微に入り細を穿つような心のこもった説明が欲しかった記憶があります。

 近時は、職種も職域も自由に求めることができると云われていますが、決して斯様なことはなく、親や身近な人たちの感化で選択するという目論見は決して変わってはいませんし、偏差値教育の延長であることは、何も変わっていないことを意識しています。その結果として、自己の内心の想いを表現することが一層求められるのが、創造性を求められるということです。

 

成年後見の運用と実態について

 もう、20年にもなるとは思いますが、成年後見制度に対する評価や批判は、何時までも消えて無くならないようです。何故か。確か、当初は被後見人の親族がほとんど後見人となっていたと聞きおよんでいました。しかしながら、被後見人の財産を食い物にする親族が多かったものですから、直後、弁護士や司法書士などの専門職が後見人となりましたようです。それでも、不正をする専門家が後を絶たないので、親族にも後見人になってもらうことを再開したようです。これは、あらゆる業界でおこる不正の数々ですが、少なくとも国家試験に合格して資格を取った人たちが、金を目的に横領などをする“やから”が多いというのも問題でしょう。

 この現状に、何かを言いたいというのではないのですが、国家資格を始め、宗教者とか教職にある人たちは、“不正をしない”という先入観があることも事実です。

 ですから、一般市民と言われる私どもが、期待し、「そんなことはないだろう」という逆の意味での先入観があります。これへの期待を裏切られることは、国への信頼を無くすことだと言っても過言ではありません。本来でしたら、100%あってはならない『不正』に対する有資格者が信頼を裏切ることの無いように、強い監視という枠組みを設けなければならない世相にならないことを期待します。

 

Z世代の親子観について

 私どもは、自分ら以前の旧世代の価値観と使い古された観念で育てられてきました。絶対と言って良いほどに、反論や文句・苦情を言わせない育てられ方でした。ただ、これは軍政の覆滅と突出して誤った観念が招いた絶大な後悔を生みました。それでも、言い訳をする一部の人や黙して語らなかった人たちのために温存されてきた思想がありま。

 当たり前のようにして、先輩から後輩に教育的指導と称して暴力が罷(まか)り通(とお)っていました。ですから、違和感も、疑問も感じないままにきたのです。これが良いことではないことを十分に知っている一部の人が、いち早く戦後教育の場で、これまた誤った国権とか民主という訳の分からない思想を植え付けてきましたので、複合的誤りの相乗効果を持たらしてきましたのが、今に至っているという現状です。これらは、一様な考え方が正しいものではないとしても、誤ってはいないのですが、強制と命令では、本人の意思を蔑ろにして、一生に及ぶ慚愧の念を生むという考え方に及んでいませんでした。

 ですから、このような考え方が1997年頃からのZ世代にも受け継がれたのでしょう。正しいかどうかの価値の立証を経ることなく、一部では命令が先立っていましたので、貧困と相まって自分らの子どもを持つことへの疑問を覚えた可能性があります。Z世代の親子観もそうです。就職氷河期と相まって、未来に対する希望が持てないならと考えても不思議ではないでしょう。