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成長の過程について

 誰しもが、自身の成長過程では、色々なことが云われています。あの、福沢諭吉でさえも、若かりし頃の武勇伝が喧伝(けんでん)されて、野口英世は色好みの大酒呑みとか、牧野富太郎は実家や嫁さんの身上(しんしょう)を使い果たしたとかです。これらについては、本人を含む近しい廻りが認めていればいいことで、第三者らがとやかく云うべきことではないでしょう。

 私どもは、偉人・先達が全て高邁(こうまい)で心身ともに人格者であることを求めますが、これは所詮(しょせん)無理というモノでしょう。人には、生きた分だけ塵芥(ちりあくた)がついて回ります。これなどは、本人の自己責任に大いに関係しています。ですから、良かれと思ったか、なりふり構わないで来たかなどは本人に帰すべきことでしょう。

 これらが、必要十分条件であったとしたら、ひとに対しては何も価値を授(さず)けることが能(あた)わなくなるでしょう。文明や文化の発達や発展を達成してきた所業(しょぎょう)が大いなる勘違いもあったとしたなら、人格の陶冶(とうや)は後年になされてしかるべきでしょう。私どもには、横井(よこい)小楠(しょうなん)・中江藤樹(なかえとうじゅ)・藤田(ふじた)東湖(とうこ)らに、常に習うべきであっても、その人自身になることではないでしょうか。徳川慶喜(よしのぶ)は、思いついたら、即実現の「士(し)」であったようで、過程を顧(かえり)みないことに大いなる失点があったようです。