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プライドという厄介な生き物とは

 私が、“自尊”という言葉で、自己の内心において恥ずかしかったのが、何かは分かりませんが或る時“自尊心”という怪物に襲われたときです。何でもないのですが、こんなことで恥ずかしい、こんなことなら云わなきゃよかった、などと顔を真っ赤にして耐えた時でした。何でもないのです。他人にも分からない感情です。しかし、その時、その場では、唯一無二の感情でした。そして、後年犬養道子氏の言葉に接したときに理解しました。それは、<感情と評価は別です。どのような場にあっても自らの意見はきちんと言いなさい。遠慮する、あるいはその場でいい子になるというのでは真実に近づけないんですよ>・・(歴史に関心を持つ、歴史を人で語るときは)「自分の全存在をかけてその人物と向き合いなさい」・・・昭和の怪物 七つの謎 保阪正康 講談社現代新書2484 頁143・憲政の神様・犬飼毅の孫・犬飼道子氏の言。

 こうした言葉を、社会科や歴史の先生は教えてくれませんでした。他には知っていることを多用しながら、です。何故なのかは、今でも分かりません。国語・理科及び算数でも同じです。

 教職にある人たちや、後進を育てる役目を負っている人たちには、当事者以上の深い素養と突っ込んだ知識は、当然必要なのではないかと思ったものでした。当時は、無知蒙昧(むちもうまい)の徒(と)でしたので、分からないことが分からなかったという“恥ずかしさ”でした。今考えても自尊心をたっぷりとゆすぶられる思い出です。