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木鐸(ぼくたく)とは

 私どもは、高度経済成長の社会の真っただ中で育ったせいか、今思いましても、こんな言葉が言えるか、何を言っているのか、などと冷や汗をかくような言葉の数々を平気で述べていたようです。それだけ社会に信頼性があったのかどうかは分かりませんが、大学卒業という高度の学問を修めた人たちを除いては、大抵が小学校卒の両親のもとで育ったものですから、社会そのものを信じて疑わないという姿勢でした。

 確かに、学問も上位を修めていくたびに、“これは、おかしい”とか、“そんなはずはない”などと、疑問を呈する現実がちらつきだしてきました。異を唱えることが間違っているとは思わないのですが、『良識』という判断根拠は、必ずしも根底がしっかりしていたとは言えないでしょう。特に、私の両親は国政を預かる政治家に対する信頼性には十分すぎるほどの根拠があったようです。それは、学問という知識と見識にたった背景があるからでしょうか。

 社会をリードして、人の先に立つのは、高度の学問を修めていなければならないという予断があったようです。ですから、新宿騒擾事件あさま山荘事件などは理解の外にありました。

 釈迦とか孔子などは、名前だけを上げますと、皆さんも知っていました。教えも含めて、箴言となるような言葉の数々は、大抵知っていました。これが、私どもを学校に行かせるための先行きとしては、かれらが“社会の木鐸”であったからでしょう。